哲學において最も完全に行はれる。
尤も異なつた第二の道を取る可能性はなほ殘されてゐる。客體の他者性の強化それの實在性への徹底はかくの如き純粹形相純粹客體の場合にも行はれ得る、少くも歴史的事實としてはしばしば行はれた。プラトンよりヘーゲルに至るまでの觀念主義の形而上學が即ちそれである(三)。この場合イデアは第二段的高次的客體であり、從つてそれ自らとしては根源的體驗における實在的他者へ還元されるを拒むゆゑ、主體の高次の自己認識として以外には實在者の象徴としての意義を獲得することはもはや不可能である。それ故、哲學への唯一の正しき道を取るを肯んぜぬ思想家たち、カントが獨斷論者と呼んだ人々、はそれを直接に實在者の地位に据ゑる外はないであらう。かくて本質上は何の背景も奧行もなく底の底まで顯はなる純粹形相がそれ自らとして實在者を以つて自任するに至る。かくの如き形而上學は、その他の點においていかに傾向や内容を異にしてゐるとしても、等しく皆過まつた基礎の上に立ち不當の權利を僭するものに外ならぬ。
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(一) 「宗教哲學」一六節、二六節、參看。
(二) 「宗教哲學序論」殊に六節、一六
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