ある故、人間學的見解の正否を別とすれば、等しく全人格を意味するともいひうるであらう。かく考え來れば、身體が來るべき完全なる永遠的存在に與かるか否かは第一義的重要性をもつ問題ではなくなる。根本問題はむしろ死の意義如何に存する。吾々は死を生の壞滅・存在の非存在への沒入と解した。死は人間的主體が存在を續けつつ一つの有り方より他の有り方へ移る轉向點ではなく、全く無くなること無に歸することである。かかる意義を有すればこそ、それは時間性の徹底化であり罪の報いであり、又反對に、罪の赦しの現はれ惠みの働きでもあり、時間性より永遠性への轉向點でもありうるのである。しかるにキリスト教の思想家たち(二)が最近まで取り來つた如く、生の壞滅存在の歸無としての死の理解を避ける態度を取るならば、たとひ復活の思想を主張したとしても、靈魂不死性の思想に踏み留まると五十歩百歩の相違に過ぎぬであらう。それらの人々はプラトン風に死を靈魂と身體との分離と解し、身體は崩壞するに拘らず靈魂はそのまま存在を續けると考へた。靈魂の死後の存在の仕方については、或るものはそれを天において神を見神を樂しみつつ送る淨福の状態と解し、他のものは
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