の光はここにも明かに反映してゐる。さて、原罪は人間的主體の動作を單純なる直接的なる自己主張とならしめる。時間的なる個々の動作の罪惡性は、この自己主張の直接性に基づき、それを克服して愛の實現の基體となすを拒み、かくて神の愛に對する不從順の態度を取るに存する故、有限的主體にとつては時間性の克服はこの根源的罪惡のそれでなければならぬ。
 罪の克服は宗教的用語においては「救ひ」又は「救濟」と呼ばれる。それは眞の有限性へ主體の本然の姿への復歸として、神聖者の惠みによつてのみ行はれ得る。本然の姿とは、主體が自ら固有の力によつて實現する存在の仕方をいふのでなく、自己が全く無に歸し彼方より與へられるものによつて充さるべき空虚なる器となることをいふのである。すなはち救ひは創造としてのみ行はれる。被創造者としての本來の面目を自ら抛棄して、あたかも自ら創造者であるかのやうに、ただひたすら自己の主張にのみ耽り、そのため却つて壞滅の道をたどるに至つた主體を、徹底的に無に歸せしめることによつて、新たなる主體性・眞の有限性を與へつつ愛の主體として創造する――これが救ひである。この救ひは、自然的文化的主體が惠みの光に
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