ヒしつつ自己を貫徹しようとする形を棄て、他者において隱れたる自己を顯はになしつつ自己を實現する働きとなる。自己實現こそ文化的生の基本的動作である。ここより觀れば、主體に對してそれの顯はなる自己即ち現實的自己となることによつて客體の任務は果されるのである。すなはちそれの他者性は可能的自己性に存する。さて主體の自己實現は隱れたるものを顯はになし、實在的中心より觀念的存在の明るき周邊へ表へと自己を表はし出す動作である。これは「表現」と名づくべきであらう。文化的主體性が自己表現に存するといふことは吾々がライプニッツの天才的洞察に負ふ眞理である(一)。尤も彼はこれをあらゆる實在者、換言すれば中心を有し中心より動作する――しかして傳統に從つて彼が實體と名づけた――一切の存在者に推し廣めたが、このことも、後の論述で明かにされるであらう如く、客觀的實在世界の認識が現に實行しつつある所を形而上學的原理の地位に高めたに過ぎないのである。
客體は主體の表現としてのみ他者的存在を保つ。このことによつて客體的存在者相互の間にも同樣の關係が成立する。客體内容は相互には他者の間柄に立つが、各は主體の自己表現である
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