yび自由は「客體」の成立によつて行はれる。主體の存在は飽くまでも他者への存在であり主體性は飽くまでも自己主張に存するが、今や實在者は他者の位置より退いてその代りに客體がその場處を占める。客體は實質上よりは觀念的存在者である。これはもと自然的生において主體の生の内容をなし又實在的他者の象徴であつたものが、この持場を離れ遊離の状態に入り他者として特異の存在を保ちつつ、いくばくかの隔りにおいて主體の前に置かれたものである。客體の分離は、その反面として、主體の分離である。主體と客體とのこの分離この對立が「反省」である。反省によつて自覺・自己意識は客體の意識とともに表面に浮び出る。かくて主體は「我」又は「自我」として成立つ。自然的生においては主體は實在的他者へ向つたまま前後左右を顧る遑がなかつた。文化においてそれははじめて寛ぎとゆとりとを得、自由と獨立とを樂しみつつ、自己の存在の主張貫徹に邁進し得るに至る。さてこのことはいかにして行はれるであらうか。このことを、從つて文化の本質を、理解するためには、吾々は客體の示す二つの面それの有する二重の性格を今少し立入つて考察せねばならぬ。
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