原理とする共同、の閃きは見えるとしても、それは忽ちにして消え失せ、殘るはたかだかかかる共同への努力のみとならう。これはエロースの立場であり、根柢において他者への單なる憧れの性格を保つのである。之に反して成就されたるアガペーにおいては、主體性までが象徴化する。主體のあらゆる存在は中心に至るまで他者へと獻げられる。それの全き自己は無に歸する。このことはすでに他者の働きであり惠みである。しかもこれは事の終極ではない。無を克服されたる契機となしつつ、ここに更に同じ他者の惠みによつて有が生れ出る。かくの如き死を通じてはじめて成就される生、しかも他者への生、こそアガペーであり、かくの如き徹底的象徴化こそ創造である。今宗教的用語をもつて言ひ表はせば、神の見る所欲する所は我の見る所欲する所となり、我は神の意志を爲す以外に我自ら爲す所なきに至るであらう。主體性まで象徴化されるに至らぬ間は、「自己」の象徴化は命令・當爲等の性格を脱し得ぬが、他者の惠みの徹底によつて、當爲は現實に、爲すべき事は爲す事に化し、生は新たなる中心より新たなる力として新たなる内容を具へておのづから湧き出るであらう。共同はもはや表面と
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