るであらう。それ故絶對者は自己の外に何ものかを有せねばならぬであらう。さて、この何ものかは、或は思惟の事柄であり從つて觀念的の何ものかであるか、或は事實であり從つて實在的の何ものかであるかである。今思惟の事柄であるとすれば、絶對者は、立入つて何と考へられようと、例へば實在者從つて充實したものと考へられようと或は反對に空虚そのものと考へられようと、結局他者性を媒介として自己同一性を貫徹しようとするもの、他者において自己を實現しようとするものとして、言ひ換へれば、文化的主體の像によつて、表象される外はないであらう。これは率直に單純に空虚に留まるべきものがただ一時遁がれの手數をかけるといふだけに過ぎぬであらう。之に反して他者を事實的存在の事柄とすれば、それはただ宗教的體驗においてのみ與へられる。宗教的體驗の外においては、絶對者も他者も先づ客體として從つて思惟の事柄として與へられねばならぬ。ただ宗教的體驗においてのみ主體は自ら實在者として實在する絶對者と交渉乃至共同に立つを知る。絶對者が實在する他者を自己の外に有することは、事實としてはただここでのみ與へられる。すなはちここでのみ絶對者の問題は
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