lete_〕)が必要となる、しかもこの練習は死後はじめて實を結ぶのである(八)。さて、練習はいふまでもなく時間的活動としてのみ成立つのではなからうか。それの目的が死後に達せられるといふは、純眞なる觀念主義の立場よりみれば、達せられぬと告白すると何の擇ぶ所があるであらうか。自らの力を恃みて、或は高次的實在者・永遠者をわがものとなすことにより、或は自らすでに神的であり超時間的であることにより、この世よりの解脱や救ひを計る人間的主體は、絶望の一語をもつて報いられる外はないであらう。
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(一) キリスト教經典においてはコリント後書三ノ一八がこの思想を示してゐる。なほ次の諸書參看。Bousset: Kyrios Christos1[#「1」は上付き小文字]. S. 197 ff.(”Vergottung durch Gottesschau“ といふ見出しの處)。――Reitzenstein: Die hellenistischen Mysterienre Iigionen3[#「3」は上付き小文字]. S. 357 f. ―― J. Weiss: Urchristentum
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