想の勢力は更に汎ねく到る處に及んでゐる。吾々は今當面の問題に關しても等しくこの根本思想の發露を見るのである。
 認識は似たもの乃至同一なるものの共同乃至合一であるといふ思想が、文化主義觀念主義の世界史的代表者であるギリシア人の間において廣く行渡つてゐるは當然といふべきであらう。明白なる例外はアナクサゴラスただ一人といつても言ひ過ぎではない。「地をもつて地を見水をもつて水を見る」云々とエムペドクレスは、甚だ素朴なる形においてではあるが、すでに明瞭にこの思想を言ひ表はした(四)。アリストテレスに從へば(五)、認識は主體と客體との合一によつて行はれる。現實的となつた認識は對象と同一である。認識せられるもの從つて――一切は認識せられるものである故――一切のものに成るといふのが理性の本質である。しかしながらそのことは、認識の未だ行はれぬ前すでにそれと對象との同一性が、(人間の認識能力の場合には)可能的に乃至(その可能性を實現させる動力としての所謂能動的理性においては)現實的に、存在するを前提する。云々。「太陽の如くなつた眼のみ太陽を見、美しくなつた魂のみ美を見る」といふプロティノスの句(六)は同
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