れの前提に遡り、それを可能ならしめるであらう事態又は事實を推理によつて想定することである。觀想の主體が客體を近きもの親しきもの乃至合一するものとして體驗することは、兩者が別々の存在を保ちながらも本來それの存在において即ち本質に於いて、乃至場合によつては實在性において、同一であることの證據でなければならぬ。本來同一なるもののみ合一し得る。主體が超時間的なる客體を認識し乃至それと合一し得るのは、それ自らすでに超時間的であるがためである。云々。さてこの思想が文化的生の立場を終極的のものと看做すより發生したものであることは甚だ明かに看取される。その立場においては嚴密の意味においては現在のみある如く又有のみ存在のみある。現に有るものは有るものより同じものは同じものより來らねばならぬ。それ故ここでは嚴密の意味における死があり得ぬ如く、又嚴密の意味においての無もあり得ず、從つて無より有の生ずること即ち創造もあり得ぬのである。宗教の領域においては神祕主義はこの傾向を明瞭に典型的に現はしてゐる。哲學乃至形而上學の領域においては、通常汎神論と呼ばれる世界觀がこの思想の上に立つことは言ふまでもないが、この思
前へ 次へ
全280ページ中151ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
波多野 精一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング