理や信念の事柄ではなく、直接に現に今客體の性格として體驗される事柄である。そればかりか、無終極性が未完成從つて不滿足の連續を意味したのに反して、ここでは主體は、過去も將來もなき純粹なる現在に安住しつつ完成されたる生の歡喜に浸ることが出來る。しかもその生は客體との合一としてのみ完成を告げる。無時間的存在者の觀想において主體が自己の超時間性をも體驗し得るやうな氣持ちを味ひ得るのは謂はれある事である。しかしながらそれは結局氣持氣分に過ぎぬ。眞實に體驗するは單に客體の無時間性のみである。高次的實在者が眞に實在者であるならば、主體のそれとの直接的合一はもとより不可能の事である。主體は自己の中心を守り超時間的存在者も他者の侵入を拒む以上、兩者が、この場合特に主體が、外面的接觸以上に進むことははじめより禁ぜられてゐる。それ故超時間的存在者が合一を許すとすれば、そのことはそれが觀念的存在者としての資格においてのみなし得る事である。かくて問題は後戻りする。觀念的存在者が主體の超時間性を惹起しも保證もなし得ぬことは、もはや繰返すを要せぬであらう。
 しかしながら殘つた道がなほ一筋ある。それは體驗より更にそ
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