レることなしにまつしぐらに彼方へ突進する主體は、等しくこなたへ突進する實在的他者に行き當る。生はここでは直接に單純に自己主張である。しかもかくの如き盲目的自己主張は事志と違つて却つて自己の崩壞にをはらぬを得ぬであらう。時間性の惱みは、すでにしばしば説いた如く、實にここに淵源する。文化的生において直接に他者として交るは客體であり、客體はそれ自らにおいて實在的中心を有せぬ觀念的存在者として主體にとつては可能的自己の位置に立つ故、その限りにおいては他者の壓迫侵害は解除され、その限りにおいては時間性の惱みは緩和を見るに相違ないが、しかもここでも他者の完全なる消滅は主體にとつては同じく自己の消滅を意味する故、主體の自己實現を可能ならしめるものはここでもむしろ同時に妨碍者なのである。このことは自然的生においてと同じであり、そこに根源を求むべきである。それ故他者との交りが何等かの變革を見、主體が他者の壓迫侵害より解放されるのでなければ、時間性の克服は望み難いであらう。
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(一) 〔Mendelssohn: Pha:don. Drittes Gespra:ch. ―― Kant:
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