ウればこそそれは個々の現在個々の活動の缺陷を、それらの極みなき連續によつて填補しようとし又しかなし得ると信ずるのである。すなはち無終極性はここでは時間性の克服者の資格において、主體性の最も本質的性格である自己主張自己實現に、それの重要なる一契機をなしつつ、協力する。眞に又完く生きるとはここでは極みなく生きるを意味するのである。
 しかしながら無終極性は決して時間性の克服ではなく、却つてむしろ時間性そのものの本質より來る缺陷の延長擴大に過ぎぬことは、すでにしばしばあらゆる觀點より論じ盡された所である。無終極性の意味における不死や永遠的生は生の完成どころか却つて未完成の連續不完成の徹底化なのである。假りに完成が可能とすれば存在の極みなき繼續はむしろ無用となるであらう。生そのもの活動そのものの本質に、完成を許さぬ何ものかが蟠まつてをればこそ、無終極の延長が必要となるのである。その本質的缺陷はいづこより來るか。他者との關係より來る。さて生きるとはいつも他者と生きることである。しかしてあらゆる生の基ゐでありあらゆる時間性の源である自然的生においては他者との交りは直接性において行はれる。前後左右を
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