ュ強く言ひ表はせば、これはヘーゲル派の人々がアリストテレスやカントの論理を 〔mentalite' pre'logique〕 と呼ぶであらう場合と似てゐるのである。
(三) Od. XI, 489.
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        二三

「時」に始め及び終りがあるかなきかについて、すでにデモクリトス(〔De_mokritos〕)やプラトンの昔考察が向けられたことは、アリストテレスの記述よりして察せられる(一)。すでにそれらの兩思想家においてもさうであつたやうに、この問題は多くの場合世界乃至それの内容に關する宇宙論的自然哲學的考察に聯關して取扱はれる。創造と終末とによつて世界の存在が兩方面より限局されるといふ宗教思想を抱いたアウグスティヌスやトマス・アクィナスその他ヨーロッパ中世の思想家達が、同じ觀點を取つたのはもとより然るべき事である。カントの第一アンティノミー(二律背反)も間接にはこの問題に觸れてゐるが、但しこれも世界の始めと終りとに關する宇宙論的問題に聯關してである。尤も「空虚なる時」(die leere Zeit)といふ觀念は論理的抽象の産物に過ぎず、時は本質上何等か
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