根ざしながら、文化的生まで昇つてはじめて成立つ事柄である點に、必然性と可能性とを一に合するそれの複雜難解なる本質は存するのである。しかしながら一たび根源的體驗まで遡つてそれの實相を見究め得たならば、それは單純に容易に人間性の最も意味深き最も本質的なる性格として理解されるであらう。人間の存在は死への存在である。現在を樂しみつつ生の甘き夢に耽る人間主義の人間に覺醒を促しつつ、わが正體わが眞の現實を知らしめるのが死の意義である。人間性に醉ふ人間にとつては無も有の一種に過ぎなかつた。かれに有は無に打勝ち得ぬこと、存在は非存在において超え難き限界に達すること、を教へて生の嚴肅なる實相に目覺めしめるものは、「死を忘るな」の自戒の言葉である。スピノーザの智者は生のみを思つたが、眞の智者は生と共に必ず死を思ふであらう。
以上の如く文化的主體が自然的生の主體を自己の根源として理解する處に死の意義は開示される。それ故、すでにしばしば、或は客觀的實在世界の認識並びに主體の自己認識に關して、或は文化的時間性に關して、それらの成立の根據として明かにされた、反省の主體と體驗のそれとの同一性、先驗的同一性、はここに死の觀念に關しても、理解の基本的制約をなすことが明かであらう。しかもここではその同一性は最も徹底的なる形において承認を要求する。自然的生及びそれの自己主張が人間的生のあらゆる形態あらゆる現象の基體乃至根源であることは、他の場合にも勿論看取される事柄であるが、ここにおいてほど痛切に強烈に自覺を促しつつ生の中心に迫り來る處はないであらう。
死は時間性の徹底化である。從つて時間性の克服は死のそれにおいてはじめて完きを得、逆に又死の克服は時間性のそれによつてはじめて成就される。ここよりして次の事どもが歸結される。第一。時間性及びそれに基づくこの世の苦惱はややもすれば死そのものによつて克服されるが如く思はれ易い。死をもつて生の一種の形とする思想がいかに根強く人心を支配しをるかを思へば、この考へ方感じ方が通俗的に揮ふ勢力は首肯かれる。しかしながらそれが全く錯覺に過ぎぬことは上の論述によつてすでに明かにされた。尤もその思想の一理あるは許容すべきであらう。死は他者よりの離脱として主體にとつてはたしかにこの世を去るを意味する。死は或る意味においてはたしかに時間性及びこの世の苦惱よりの解脱である。ただ
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