惜しむべきはその解脱は同時に解脱する筈の主體の壞滅を意味することである。世の惱みは主體の自己主張の抑壓否定に基づくとすれば、死は却つてこの世の惱みの徹底化といふべきである。ここより觀れば、世の惱みこそむしろ死の前兆又は先驅と解すべきであらう。
第二。吾々は時間性の克服である永遠性は同時に死の克服でなければならぬこと、又死の克服は永遠としてのみ成就されることを知る。生の繼續に過ぎぬ不死性の觀念が、永遠性の又從つて死の克服の要求に副はぬことは、すでにここよりしても明かである。永遠性の正しき理解を求むべき方向もすでにここに指し示されてゐる。主體の現在が將來を失ふことが死であるならば、永遠は過去が無く將來のみある現在である。それと聯關して、死は他者よりの完き離脱であるに反し、永遠は他者との生の完全なる共同でなければならぬ。孤獨は死を意味し、永遠は愛としてのみ成立つのである。
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第五章 不死性と無終極性
二一
時間性そのものの範圍において、すでにそれの或る程度の克服が行はれることは、吾々がしばしば説いた所である。すべての時間性の根であり源である自然的時間性は文化的時間性において變貌を遂げるが、その變貌は修正を意味したのである。文化的生の時間的性格は現在に存する。それの支配の及ぶ限り有と存在とあるのみである。根源的體驗においては存在の墓であつた過去はここでは却つて存在の母胎となる。この時間性の世界に屬する限り何ものも滅びることを知らぬ。主體は現在を樂しみ將來を望みつつ自己の實現に生きる。
しかしながら、この活動と享樂と希望との美しき世界も根柢においては實は砂上に築かれたる玩具普請に過ぎぬ。一切を擔ひ支へる筈の現在は絶えず壞滅の中に葬り去られる。又それは將來に、從つて他者に、依存する存在である。時間性のこの性格の徹底化こそ死である。死の運命性において、必然性乃至強制性を兼ねたるそれの可能性において、人間性の深刻なる悲劇は存する。時間性の克服は死のそれでなければならぬ。永遠性は不死性として成立たねばならぬ。
「不死性」(Unsterblichkeit)はプラトン以來「靈魂」の不死性乃至不滅性として知られてゐる。しかるにこの觀念は、古き榮えある傳統にも拘らず、甚しく意義の明瞭を缺き、殆ど學問的使用に耐へぬ嫌ひがある。これは一つには、
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