難い。嚴密にいへば、文化の世界には生のみあつて死は無いのである。かくて吾々は事柄の更に深き根源に考察を向け、文化的生の基體である自然的生へ時間性の根源的體驗へと遡るべく促される。死は直接的體驗の事柄ではないが、それにも拘らず、時間性の直接的體驗にまで自己省察を向けることによつて、はじめて自らの意味をもつ特異の獨立の事柄として成立ち又理解されるのである。
死は自然的時間性、時の不可逆性、の徹底化である。主體のその都度の現在だけではなく、全き現在の即ち生の全體の壞滅、無への沒入が死である。統一的全體的主體にとつて存在の維持者である實在的他者との交渉が斷たれ、從つて根源的意義における將來が無くなることが死である。對手を失つた主體、將來の無き生、これが死である。吾々はすでに、根源的時間性において現在が過去へと存在を失ひつつ、しかも將來より補給されるを見た。絶えず非存在へと過ぎ去りつつしかもなほ現在が成立つのは、將來があり他者との交渉があるからである。存在の補給路が全く斷たれたる現在、全く孤獨に陷つた主體、去るあるのみ待つもの來るものの全く無くなつた生は滅びる外はない。主體のかくの如き全面的徹底的壞滅こそ死である。
かくの如き本質を有する死は、すでに述べた如く、もとより直接的體驗の事柄ではない。それは全體としての自己を理解しようとする主體が、自己の存在の本質的性格として感得する事柄である。吾々が生きる限り死には出會はぬゆゑ、死はいつも可能性としてのみ存在する。しかもそれが主體の自己實現の一契機として主體の自由に基づく可能性ではなく、實在的他者との關係交渉に根源を有する可能性である點に、それの本質的特徴は存する。時間性はすでに主體自らの好むと好まぬとに關はりなくそれの存在を支配する必然的運命的現象であつた。時間性の徹底化である死においては、この必然的運命性も亦徹底的となる。それは主體の最深最奧の本質に喰込み、それの全き存在と自己とを徹底的に破壞するいかにするも遁がれ難き運命の意義を擔ひつつ、主體の本質的性格を形作る可能性として傾向として與へられるが故に、理解する外なき事柄覺悟する外なき運命である。又かくの如きものであるが故に、或は理論的に又は實踐的に、或は解釋により又は行爲により、囘避し得る事柄であるかの如き態度を取る餘地は殘されてゐる。死は時間性の徹底化として根源的體驗に
前へ
次へ
全140ページ中48ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
波多野 精一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング