に認識される客體であるに止まり、吾々が自ら生きる生の意義に對しては、原理的には、沒交渉である。死の事實の客觀的觀察、特に又すべて生きるものは(從つて吾も)死なねばならぬといふ客觀的認識は、死の意義の自覺がすでに或る程度まで明かに存在する處においては、それの確實性を強めるに役立ち得るであらう。さうでない場合には、外部より觀察されたる死の現象が、吾々自らにとつて重大關心事である死といかなる程度において同一であるかさへ明かでない。場合によつては、かかる觀察や認識は死の現象を外面化することによつて、無造作なる早合點の自信や氣安めを促し、かくてむしろ死の内面的理解の妨碍とさへなり得るであらう。プラトン以來ギリシア哲學を風靡し從つて中世及び近世の哲學や宗教思想に深き影響を及ぼした死の觀念――精神(靈魂)の身體よりの分離としてそれを定義しようとする死の觀念――はこのことの顯著なる實例に數へらるべきであらう。
かくの如き客觀主義の立場に立つてギリシアのエピクロス(Epikouros)は死への關心の愚を證明しようとした(一)。死は畢竟身體と精神とを組成する原子が分離乃至分散することに外ならぬ。兩者の結合が續く間從つて吾々が存在する間は死は來らず、死が來つた時は吾々はもはや無い。生きる者にとつては死は無く、死したる者は自らすでに存在しない。知覺の能力あつてこそ「よし」「あし」も意味があらうが、死はあらゆる知覺の喪失に外ならぬ。云々と。さて、死の本質と意義とが、客觀的に觀察認識される一事實、客觀的實在世界に屬する一現象、であることに主として存し乃至盡きるとしたならば、天變地異に出會ふと同じ意味においては吾々が自らの死に出會ふことのないのはいふまでもない。出會ふことが無いと知りつつ、しかもそれに出會ふことを人生の不幸として忌み又は恐れるならば、これに優る愚はあり得ぬであらう。――しかしながら、かくの如くに死を見るは全く誤つた觀點を取るものである。吾々が死を嫌ひ又は恐れるのは、死と稱する一種の客觀的出來事に出會ふを嫌ひ又は恐れるのではない。むしろ吾々自らが無くなることを、言ひ換へれば、何もの何事にも、從つて客觀的出來事としての死にも、出會はぬやうになることを嫌ひ又は恐れるのである。
尤も死は直接的體驗の事柄ではない。そのことを示唆する限りにおいてはエピクロスの言は正しい。時間性は直接に體
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