される。有は無と離すべからずに結ばれるが、その無は有の外にある。これは、後に説くであらう如く、克服されたる契機として無を内に含む永遠的現在と異なる時間的可滅的現在の特徴であつて、それによつて現在及び存在はいつも過去及び非存在に取つて替はられるのである。有と無とのかくの如き聯關の客體面に現はれたるものが、有と有との極みなき連續である。すでにしばしば説いた如く、文化的時間從つて客觀的時間においては、現在が一切を含み時は現在に盡きる。そこには非存在や無は嚴密には存在せず、それはむしろ異なる存在異なる有の別名に過ぎぬ。有の外にあつてそれに境ひする無は、ここでは有の外にありそれと外面的に接續する他の有に外ならぬ。本質的に非存在と過去とに落込む存在と現在とは、ここでは本質的に他の存在他の現在へと連らなる存在及び現在となるのである。時間性の根源的性格をなす存在の可滅性・無常性・不安定性・斷片性・不完成性は、かくの如くにして果てしなき連續即ち無終極性として發現を遂げる。無に境ひする有に代へるのに有に連らなる有を以つてする點において、しかしてこれが體驗より觀念への轉向を意味する點において、根源的時間性の或る程度の超越は認められるが、他方においては、その都度の出來事であつた時間性の缺陷を無際限に連續する出來事として恆久化する點において、却つて、その缺陷の引伸ばしともなるであらう。ヘーゲルが無終極性を「惡しき無限性」と呼んだのに傚へば、終りなき果てしなき客觀的時間は「惡しき永遠性」と呼び得るであらうが、時間性の克服であるかの如く見えて實は却つてそれの缺陷の延長である點を思へば、「僞りの永遠性」の名が或は一層當を得たものでもあらうか。
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    第四章 死

        一八

 死について考へ殊に死の必然性を知り死を覺悟することは人間の貴き特權と考へられる。死の意義ほど自己について深く省察する人にとつて重大なる問題は少いであらう。しかもそれは、客觀的乃至自然的現象としての死が同じく客觀的乃至自然的現象としての生に對していかなる關係に立つか、根本的にいつて、かかる現象としての死ははたして又いかにして必然的事實として承認されるか、などの問題と混同せらるべきでない。假りにかかる必然性が理論的確實性を得たとしても、この意味における必然的事實としての死は、單に理論的に從つて冷靜
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