a.
[#ここで字下げ終わり]

        一七

 ここに時間性の或る程度の克服のあることは否むべくもない。それどころか、客觀的時間の無終極性は昔より廣く、殊に通俗的には一般に、永遠性そのものと看做され時間性の完き克服であるかのやうに考へられた。しかしこれは甚しき誤解である。客觀的時間は生きられる時ではなく觀られる時であり、從つてそこでは主體は舞臺の前面より姿を消すに相違ないが、しかもいはば黒幕に隱れて依然存在を續ける。認識する主體は依然活動する主體、しかも實在する世界の中にあつてそれと交渉を保ちつつ活動する主體である。そこに主體と客觀的時間との關係交渉は成立たねばならぬ。この觀點よりみて、時の無終極性、終りなき果てしなき時、は何を意味するであらうか。それは活動の無意味を意味するのである。存在と存在との果てしなき連續は、存在がいつまでも充實と完成とに達せぬこと、主體の自己實現がいつまでも志を遂げ得ぬことを語る外はないのである。一つの存在より他の存在に移ることによつて主體はいつも同じく存在に出會ふ。しかもその存在はいつも同じく可能的存在に過ぎず、可能性の現實化はいづこにも進歩發展を見ず、いつまでも成就すべくもない。直線的存在は畢竟中心の無き存在である。すでに述べたる如く、客體は主體を中心にもち、それを外へ表はし出すべき任務を遂げることによつてはじめて有意味なるものとして成立つのであるが、ここにはむしろ反對に、實現し表現すべき何の中心も自己もあり得ぬ單なる存在の等質的連續、果てしなき直線的連續があるのみである。
 以上は自然的時間性における根源まで遡ることによつて一層明瞭となるであらう。根源的體驗においては、現在は從つて存在はいつも無くなり行き滅び行く存在である。生ずるものは滅び來るものは去る。いづれも不安定的斷片的缺乏的である。これが時間性の根源的性格である。しかもこの性格が客體面に現はれたものが無終極性である。各の存在は無くなる缺ける落着かぬ存在であるが故に他の存在を要求し、かくて次へ次へとその要求は引繼がれ終極する所がないのである。言ひ換へれば、根源的時間性において有は無と離し難き聯關を保つが故に、客觀的時間において存在は單に他であることによつてのみ區別される次の存在へと移り行くのである。自然的時間性においては、存在は嚴密の意味における非存在によつて境ひ
前へ 次へ
全140ページ中42ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
波多野 精一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング