驗される自然的生の構造である。しかしながら、現在がいつも無に歸することと死とは決して同一でない。自然的生においては、主體はその都度の現在に生きつつ、その現在がその都度滅び行くを體驗するのみである。しかるに死は過去より將來を通じて同一なる主體從つてあらゆる時を包括する現在の消滅を意味する。これは文化的時間性の段階においてはじめて可能となる事柄である。主體が文化的生にまで昇り、自己の統一性全體性の觀念が生じてはじめて死は問題となる。自然的生においてはその都度の現在はあるも一切を包括する現在は無い。かかる現在は客體面において又客體間の聯關を通じて自己を表現する主體を俟つてはじめて成立する。
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(一) Diogenes Laertius, X, 124 seqq. ―― Lucretius Carus: De rerum natura, III, 830 seqq. 參看。
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一九
しかしながら、すでにしばしば論じた如く、文化的意識に對しては嚴密の意味における無は存在しない。それ故、一切を包括する現在に浸つたまま遡つて生の根源を究めるを怠る文化主義にとつては、無と同樣嚴密の意味における死も實はあり得ぬ事柄である。「自由なる人(智者達人)は死を思ふこと何事よりも稀れである、死ではなく生の省察こそかれの智である」といふスピノーザの言は、徹底したる文化意識の心の底からの聲であらう(一)。近時の民俗學は興味ある一事實を明かにした。それは未開の原始民族の間においては死の觀念が極めて稀薄なことである。原始人にとつては生きる者が飽くまでも生きるといふことは自明の事柄であり、生が死をもつて終らねばならぬといふことはむしろ不可解である。特に惠まれた個人ばかりでなく全き種族が生きながらに樂土に移されるといふ思想は決してめづらしくない。死こそ却つて不自然であり特に説明を要する事柄なのである。死の必然性が心に刻み込まれるに至つた後も、彼等は死を生の終極とは考へず、むしろ單に異なつた形における生の延長と考へる。死は彼等にとつては特殊の生き方に過ぎぬ。又その生き方に關する考へ方も生と死との區別を最大限において拭ひ去る如きものである。すなはち、彼等にとつては死者は全體として――一部分としての靈や魂などでなく、同樣の名をもつて呼ばれる場合
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