も自己性の支配の及ばぬ限り即ち他者性の勢力の殘る限り、自と他との區別の存する限り、根源的原始的他者性との聯關は存續するのである。ましてや自然的他者性への復歸を意味する客觀的實在世界が全く空間性の支配の下に立つは當然である。ここでは空間性はもはや譬喩的表現としてではなく、實在者そのものの本質的性格として威を揮ふ。かくてそれは客觀的時間即ち客觀的實在世界の時間性において最も重要なる契機をなすに至る。
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(一) プラトンの eidos 又は idea は、「見得べきもの」(horaton)と區別して特に「思惟し得べきもの」(〔noe_ton〕)と呼ばれをるに拘らず、本來「かたち」又は「すがた」を意味する。すなはち高級なる「見得べきもの」である。比較的嚴密なる概念的論述を試みてゐる「國家」篇によつても、それは「思惟し得べき場處」又は「空間」(〔ho noe_tos topos〕)において存在する(Poaliteia 517 b)。なほプラトンの思想がプロティノスを介して、ダンテの「天國」篇に影響したことは多くの學者の認める所である(例へば Th. Whittaker: The Neoplatonists. P. 199 ff)。
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        一六

 客觀的時間は文化的時間の舞臺より主體が退場して生ずる故、活動に固有なる客體面の凹凸波動はここでは消え失せ、世界の平坦なる等質的なる客觀的形相乃至秩序としての時のみが殘る。尤も現實的生においては客體内容に主體性を付與する擬人觀が強く働く故、その擬人觀の形態又は程度に應じて、客觀的時間の構造も可なり複雜なるものとなる。例へば、相互に作用しあふ客觀的實體は、いはば各私的の時間性を有するが如く表象される。萬物は滅び易く萬事は常無しといふが如き判斷も、客觀的實在世界に關する判斷としては、擬人觀の産物である。認識としての性格が向上を見、擬人性がますます克服され客觀性がますます確保されるにつれて、一切事物を等しく支配の下に收める、單純なる等質的なる、いはば公的なる、客觀的時間が立場を固める。ここでは過去も將來も去り、留まるはただいづこも同じ現在のみとなる。かくの如く等質化平等化したる現在においては、他者性關係性はもはや空間のそれでのみあり得るであらう。なほ時について語らうとすれば、それは
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