間の變種に過ぎぬ。それは觀想の立場において時間性の取る特殊の性格である。しかもこの立場においては主體は客體の蔭に隱れ單に動作の隱れたる中心としてのみ存立を保つ故、この時間性の主體に對する意義は稀薄である。徹底的にいへば、後の論述で明かであらう如く、時間性よりの離脱こそこの立場にふさはしき態度なのである。しかしながら、觀想が客觀的實在世界の認識といふ形を取る場合には、すでに論じた如く、自然的生への或る意味の復歸が行はれる。具體的にいへば、かかる認識が實在者のそれとなるためには、吾々は客體内容及びそれの聯關の考察だけで足りるとはなし得ぬ。例へば理論的物理學においてさへ實驗が必要である如く、吾々は實在的他者に出會ひ行當りそれと自然的直接性の間柄に立たねばならぬ。しかるに自然的生への聯關がなほ殘留する處には時間性も亦殘留する。かくして成立つのが客觀的時間である。客觀的實在世界の認識が觀想である限り主體は影をひそめ活動の性格は表面より退く故、この時間性は主體自らの性格をなすことなく、ただ客體の世界の性格をなすに過ぎぬ。さてこの時間性の構造を理解するためには吾々は客觀的實在世界の構造を明かにせねばならず、しかもそのためには吾々は遡つてこの世界がいかにして成立つかを知らねばならぬ。
 すでに論じた如く、客觀的實在世界は客體を實在的他者に歸屬せしめることによつて成立つ。このことは客體面の擴がつたものが新たに實在的中心を得從つてそれの表現となることを意味する。しかもこの場合その新しき中心は主體と實在的關係交渉に立つ實在的他者である。客體は實在的他者の表現、即ち、それにおいて後者が隱れたる中心としての自己を顯はにすることによつて自己主張自己實現を行ふ所のものとなる。言ひ換へれば、實在的他者は客體に對していはば新たにそれ自ら主體の位置に立つに至る。これは認識する主體の動作によつて行はれ、その限りにおいては、主體の自己實現の活動に基づき、從つて文化的生の一形態として成立つ事柄であるが、傍ら又、自然的生への復歸をも意味することはすでに述べた如くである。かくの如く主體の自己表現としての客體が實在的他者の自己表現となることによつて、文化の段階における實在的他者との交りは行はれるのである。主體の自己表現と實在的他者の自己表現とが客體において一に歸することは、それに象徴としての意義と資格とを付與する
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