流れは逆流する。過去より發し現在を經て將來へ向ふ。しかも過去も將來も現在に從屬する特殊領域に過ぎぬ故、時の流れは内に留り、外より來り外へ消え失せることがない。かく考へ來れば、文化的歴史的時間は或る形或る程度における時間性の克服であることは疑ふ餘地がない。しかしてこの克服は畢竟「過去」のそれである。過去は全く面目を新たにし自然的時間において有した絶對性を抛つて、むしろ主體によつて從つて現在と將來とによつて形成され處理されてはじめて成立つものとなる。文化的歴史的時間が支配する限り、生は内部的構造においては活動の性格を擔ひ從つて變化と運動との姿を示すであらうが、しかも全體としては、生きることを知つて滅びることを知らぬであらう。形相及び自己性と質料及び他者性との兩面が共に具はつて兩者の聯關としてのみ生が成立つ以上、主體は變り行く將來の展望を樂しみつついつも新しき希望に躍るであらう。現在への喜びを基調として自由と進歩との朗かなる旋律が生の情調を活かすであらう。これに優る幸福ははたしてこの世に求めらるべきであらうか。
しかしながら、文化的生は自然的生を又歴史的時間は自然的時間を基體としてその上に立つものであり、從つてそれを擔ふ地盤の制約と影響とを脱し得ない。一切を擔ふ「現在」は依然絶え間なき移動轉化を示す現在である。無の中より浮び上る如く見える過去はただ絶えず無の中に沈み行く現在によつてのみ支へられる。生は滅びることを知らぬであらうが、それは現在が持續する限りといふ條件の下においてに外ならぬ。その恆常性は結局瀧つ瀬を彩る虹のそれ以上のものではあり得ぬであらう。外觀は平和と幸福とをたたへる如くであらうが、立入つて實質的内容を檢討すれば、他者性と自己性との兩契機從つて過去と將來との兩領域は、相俟ち相促しつつ、しかも他方において互に牽制し互に反目しつつ、文化の存在の意味である自己實現をいつも未完成のままに置去りにする。生はいつも缺乏の中に留まりいつも完きを得ずにをはる。過去と將來とのいつも新たなる色彩華やかなる交互聯關は、結局絶えず壞滅の中に消え失せて行く自己の姿を蔽ひ隱さうとするはかなき幻の衣に過ぎぬであらう。文化主義人間主義世俗主義は畢竟かくの如き自己欺瞞の所産でなくて何であらうか。
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第三章 客觀的時間
一四
客觀的時間は文化的時
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