すでに將來によつて色どられ影響されたるものである。過去は常に將來の支配の下に立つ。單なる事實性實在性はもとより主體の處理を拒むであらう。しかしながら内容は、即ち文化的意義における存在は、觀念的存在、意味としての存在である。それ故歴史における過去は決して單なる既定的事實ではない。それは將來の異なるにつれて變貌を見るべき存在である。歴史的事實は、「歴史的」と呼ばれ得る限り、主體の生の移動と共に絶えず變貌する流動的性格を擔ふ。過去の囘顧は將來の展望によつて絶えず新たなる姿と新たなる色彩とを展開する。かくの如く將來の優越性のもとに現在を介して行はれる過去と將來との交互的聯關において歴史は成立つ。歴史において人はいつも新たなる將來に生き、更にそのことによつて、又いつも新たなる過去に生きる。かくて過去は全く取返へしのつかぬ決定的宿命的なる事柄では無くなる。

        一三

 以上論じ來つた所によつて吾々は文化的時間の特質を明かになし得た。ここでは主體とそれの「現在」とが一切を支配する。過去も將來も等しく現在の内部的組織に屬するものとしてそれによつて包括されそれの部分乃至契機(要素)をなすに過ぎぬ。自然的時間においても或る意味においてすでに現在は過去と將來とを包括した。これは時が根源においては時間性として主體の性格として成立つことの必然的發露である。現在が首位を占めることは時間性のあらゆる姿の共通の特質をなすのである。しかしながらその共通の地盤を一足踏出すや否や道は分かれる。自然的時間においては現在は兩面において自己以外のものと境を接しそれの壓迫侵略に屈した。すなはちそれは一方實在的他者よりの拘束に從ひつつ他方非存在の中に滅び去らねばならなかつた。現在の内部的構造は宿命的必然性へのそれの服從を意味した。しかるに文化的生においてはかくの如き制限は撤廢され、必然性と拘束とを哀訴したものが却つて自由と解放とを謳歌するものとなる。そのことに應じて文化の世界客體の世界は存在のみの世界となる。そこには嚴密の意味の無や非存在の住むべき場處が無い。「考へられるものと有るものとは同一である」といふパルメニデス(〔Parmenide_s〕)の有名な句は文化的生のこの特徴を簡明に適切に言ひ表はしたるものとして典型的意義を有する。過去は存在の墓であることを止めてむしろ存在の泉となる。かくて時の
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