ことに外ならぬ。實在性とは中心に立ち中心より生きる存在の謂ひである。すなはち、實在するものは他の何ものかの自己のうちに入り來るを許さず、他者の侵略に對し飽くまでも自己を防衞し、更に進んでは他者を侵略しつつ自己を主張貫徹する。主體の生内容が、主體の自己に屬するものが、實在する他者を指し示し代表することがなかつたならば、主體と他者との交りは行はるべくもない。かくの如き實在的交渉の最も基本的直接的なるもの原始的根源的なるものが自然的生である。文化的生はかかる原始的交渉よりの解放を本來の性格として有するものであるが、假りにこの本質的傾向が貫徹されたとすれば、すでに論じた如く、一切はたわいもなき夢や幻の如く飛び散り實在する主體は空虚のうちに融け去るであらう。客體の他者性の強化によつてこの危險を食ひ止めるのが客觀的實在世界の任務であり、しかしてそのことは自然的生への一種の復歸によつて行はれる。しかもこの復歸を成就するは認識である以上、認識が文化的生においていかに重要なる役割を演ずるかは、この方面よりしても明かに看取されるであらう。それは一方より觀れば觀想の性格を擔つて文化的生の本質的傾向の貫徹を志し、しかも他方、自然的生への復歸を遂げることによつて同じ生を崩壞より救ひ、それに根源への復歸と實在的基礎とを確保する。これは日常生活においてすでに行はれ居る事であり、認識が學問へと發展擴充を見ることによつて、それの本來の志向は完遂される。
以上によつて擬人性が客觀的實在世界の認識の必然的特質をなすことは明かとならう。認識の直接の對象をなすものは客體としての觀念的存在者であり、これの根源的意義は主體の自己表現であるに存する。主體は自己の表現を通じてはじめて他者を認識し得るのである。實在する他者そのものは決してわがうちに入り來らず、しかもわれに屬するものが同時にわれの外《そと》にあるものを代表する處に認識は成立つのである。若し主體の表現と他者の表現とが一に歸して主體における他者の象徴を成立たしめることが無かつたならば、認識は到底不可能にをはるであらう。ここに古へより認識の客觀的妥當性を否み又は疑はうとしたあらゆる教説の究極の根據が見出される。若し推理によつて、從つて反省の立場に立ちつつ客體内容の聯關をたどることによつて、實在者に到達する以外に途がないならば、吾々はいかに力めようとあせらう
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