に聯關を設定する故、前者即ち實在性も亦一種の觀念的内容となるが、これは何事によらずすべて體驗へ又根源へと遡らうとする際に起る困難であつて、もはや反省の立場において解決し難き問題である。それは生の基本的事實として、身自らその中にあつてその事を生きる外に途がないのである。吾々がすでに自己認識に關して出會つた困難、即ち隱れたる實在する主體と顯はなる觀念的主體との同一性の困難も、立入つて見詰めれば、結局同じ困難であり、皆等しく吾々が主體の先驗的同一性と名づけたものに還元される。それは根源的體驗と反省とにおける主體の同一性であり、實在する主體と客體面に觀念的聯關として表現される主體との同一性であり、從つて又認識する(實在的)主體と認識される(觀念的)主體との同一性でもある。かくの如く反省そのものがすでにこの同一性を前提する故、それは理解し得る事柄ではなく、その中に生きつつ體驗される生の基本的事實なのである。
さて囘想は無に歸したる内容の再現である。その内容の實在的有は無の中に葬り去られたるままもはや呼び返へすすべがない。存在は觀念的存在として再現を見る。このことはいふまでもなく反省の働きによつてなされる。すなはち、觀念的存在者が實在者を離れて遊離し新しき特異の存在に入り、しかも聯關と同一性とを保つことによつて囘想は可能となるのである。しかしてこの囘想によつて文化的時間における過去は成立つ。
かくして成立つた過去は主體及びそれの現在の中に包まれつつそれとの聯關において立ち、それの一契機乃至一領域として特異の役目を務める。すなはちそれは無に歸したる存在の再現再生として、反省の立場に立つ主體に存在の供給者の任務にあたる。客體の存在を維持し補給するものとして、それはそれにおいて主體が自己を實現すべき質料の意義を持つ。すなはち文化的生における他者性の領域にそれの時間的性格として對應するのが過去である。自然的時間において存在の供給者は將來であつた。文化的時間においてそれと同一の任務に當るのが過去である。さて客體の他者性は究極は實在的他者性に根源を有する故、文化が實在的世界との聯關を保つのは過去によつてである。かくの如くにしてここに時の方向の一種の顛倒が行はれる。滅亡を意味した過去が却つて他者の位置に立ちつつ存在の供給者となる。ここに根源的時間性の或る形或る程度の克服が存することは否む
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