にも囘想といふ名が與へられる。その場合再現されて現在する有は勿論客體的存在に過ぎないが、ここに、非存在が存在に向ひ無より有が呼び起されつつ、自然的時間においてとは正反對の方向に存在の移動が行はれるといふ現象が發生することは特に注目に値ひする。
 客觀的實在世界に屬する乃至はそれと關係づけられる經驗的事實としての囘想には種々の科學的説明が與へられるであらう。例へば特定の出來事の影響や痕跡が殘ることによつてなどの如くに。しかしながら、かかる説明がすでに囘想の働きを前提するといふ難點を除いても、囘想は單に同一内容の保存や持續ではなく、むしろ同一内容がそれとして認識されることを意味する。しかるにこのことは更にその内容その客體が同一主體に屬すること同一自己の表現であることを前提する。主體が自己意識にまで昇り「自我」として成立ち自己と客體との對立及び關係において生きること、即ち反省の段階に昇り自由の境地に進んだこと、によつて囘想は可能にされる。
 尤も反省の立場文化の段階においては、それの時間的性格が現在に盡きる如く、一切は有であり存在である。そこには嚴密の意味においての無は存在しない。客體としての「無」や「非存在」は、主體の現在の内容をなすものとして、それ自ら一種の有、存在の一種の仕方である。從つて囘想は、それの可能性の根據である反省の立場においては、一つの有り方にある何ものかと他の有り方にある同じ何ものかとの間に存する聯關意味聯關において成立つといふべきである。しかしながらこれだけでは過去の性格を可能ならしめる囘想の意義を盡したとはいひ難い。反省の立場においての無といふ有り方が更に體驗――この場合自然的生の體驗――においての無を代表する場合にのみ囘想は有意味となるのである。しかしてこのことは反省の主體が更に根源への復歸をなし得ること、その意味において、すでに前に述べた如く、先驗的囘想をなし得ることを前提とする。しかるにこの事は、すでに前に述べた如く、すべての生從つて自然的生が體驗としてすでに反省の契機をうちに包含することによつて可能なのである。すなはち反省は無より有を生ずるのでなく、すでに潛在的にあるものが顯在的にあるやうになるを意味する。尤もかく言ひかく考へる場合吾々は反省の立場に立ち、體驗における生の從つて實在性の契機と反省の從つて内容的觀念的契機とを區別しつつ兩者の間
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