る主體の同一性を前提する。尤もこの「先驗的同一性」は反省の立場において主體の自己實現自己表現においてはじめて顯はとなり、はじめてそれと意識される。客體内容相互の聯關意味聯關を離れて直接に主體の同一性自我の同一性を捉へようとする企ては徒勞にをはらねばならぬであらう。
 客觀的世界の認識と相並んで主體の自己認識も成立つ。すでに述べた如く、客體は主體の自己表現であり、自己の顯はになつたものとして自己性の契機を含む。客體として又客體においての外は主體は自己を顯はにしない。ここに主體の自己認識の可能性の根據は與へられる。この認識は、客體が從つて主體の表現が主體自らの象徴となることによつて、言ひ換へれば、主體自らが主體自らとの交渉に入り、かくて隱れたる自己即ち認識動作の中心と顯はなる自己即ち認識される自己との二つが、分離對立しつつしかも同一性を保有し乃至貫徹することによつて行はれる。このことは單に形式論理的に考へれば或は不可能のやうにも思はれようが、反省の立場において客體が主體より分離しながらしかも可能的自己として自己の表現たる意義を保有することを思へば、むしろ必然的とさへいふべきであらう。その場合客體面が自己性の層乃至領域と他者性の層乃至領域とに分かれをることは、表現を象徴に發展せしめつつ實在者――この場合主體自ら――に關係づけ、かくして表現より認識への轉換を可能ならしめる。自然的生において實在者――この場合他者――の象徴として實在者(主體)の生内容をなしたものは、ここでも客體としての遊離状態を經て再び實在者の象徴として實在者の生内容たる意義を恢復する。この意味において吾々はここでも先驗的囘想の働きを見出すであらう。ただ客觀的世界の認識と異なつて自己認識は、根源的體驗において他者の象徴であつた觀念的存在者がその元の位置に復歸するのではなく、むしろ反對の方向を取つて新たに主體の象徴の位置に推し進められるのであり、從つてその限り復歸よりはむしろ前進を意味する。そのことと聯關して、第一、この認識は單に自然的生の主體に關してばかりでなく、あらゆる段階の生の主體に關して行はれ得る。第二、自己認識は自然的生よりの解放としては前進を意味する故、それの踏み出した歩みは更に新しきいはば高次の反省によつて新しき高次の客體の遊離へと進むであらう。ここに再び道は分かれる。正しき道はかくの如き高次の反
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