省を通じて更に高次の自己認識へ進む。プラトンがイデアと呼んだ高次の存在はかくして生の最も高き自己認識の課題と内容とをなすであらう。ここに正しき意味の「哲學」の世界の展望が開かれる(二)。
 さてそのことは、立入つていへば、次の如くにして行はれる。すでに論述した如く、反省の段階において顯はとなる生の姿は、活動の性格を擔ひつつ二つの領域より成立つ。客體面が一方隱れたる主體的中心に對して他者でありながら他方それの表現であることは、第一段として、その同一面が自己性と他者性との兩契機より成立つことを要求し、更に第二段としては、主體の中心よりの働き掛けが顯はとなりつつ、客體面において自己性と他者性とを代表する二つの領域が分かれ出で相聯關することを要求する。すなはち主體は客體として顯はになることによつてはじめて客體に働き掛けるのである。それら二つの領域乃至二種類の形象は、一つが働き掛けるもの形作るもの他は働き掛けられるもの形作られるもの、一は形相他は質料、の間柄において立つ。反省の立場において自己認識の對象をなす主體の姿もかくの如き構造を示すのである。その場合他者性と質料との側に立つ形象は實在性を代表し、自己性と形相との側に立つ形象は内容を代表するはいふまでもない。實在性はなほ隱れたるものに當り内容はすでに顯はなるものに當る。かくの如き構造はすでに日常生活において具はるが、學問即ちこの場合所謂精神科學において確立と擴充とを見るであらう。然らばさきに高次の反省と名づけたもの即ち新しき高次の客體の分離はいかにして行はれるか。それは、自己性と形相との位置に立つ形象を、他者性と質料との位置に立つものより引離し、それに獨立性と――反省の立場においては勿論さうでなければならぬが――優越性とを付與しつつ、固定することによつて行はれる。自己性の契機のみを代表するものとして斯の如き形象即ち純粹形相は、生の最も顯はなる姿それの眞實の存在――プラトンが 〔onto_s on〕 又は ousia と呼んだもの――を開示するであらう。他者性を代表する形象は後ろに置き棄てられるゆゑ、客體面の凹凸波動は跡を絶ち、實在性の曇りは吹き拂はれて、隈なく澄みわたる客體面に、各それ自らの明るさに照りはえる存在の靜かな姿のみが、見入る觀想の眼に留まるであらう。これが哲學の世界である。文化的生の及ぶ限り自然的生よりの解放は
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