なる繰返へしではなく、或は整理であり或は展開であり或は擴充である。かくてここに客觀的實在世界とそれの認識とが成立つ。このことは既に日常生活において行はれるが、それを修正しつつ完成し徹底的に成就せしめようとするのが學問即ち所謂科學の任務である。科學の對象である客觀的實在世界――簡單にいへば所謂客觀的世界――は自然的生及び自然的實在性との聯關を認識によつて維持しようとする働きの所産であり、從つて科學の對象としての「自然」は、カントの洞察した如く、文化的活動の所産である。自然的生に根源を有するもそれより區別されねばならぬ。尤も客體内容のうち、實在的他者の象徴としての意義を獲得せず又それ自身實在者の位に据ゑられることなしに、それ本來の姿において他者性の固定を見るものもある。數學的並びに論理的思惟の對象の如きはこの類に屬する。
客觀的實在世界の認識は主體が反省の立場に立ちながら、しかも、一旦少くも志向の上においては遠ざかつた、實在者との關係交渉に再び接近するを意味する。さて實在者との交りはすべての生の基礎であり根源であるが、根源を去りたる反省はいかにして又その根源へ復歸し得るであらうか。このことは根源的生が潛在的にすでに反省を内に含むことによつて可能となるのである。すなはち、反省は全く新しきものの突然の發生ではなく、すでに隱然具はつてゐたものが、表面に現はれ出で獨立性を獲得することによつて、固有の本質を自由に發揮することに外ならぬのである。すでに述べた如く、いかなる生も現實的状態においてはすでに何等かの程度において文化的であり又體驗の性格を具へてゐる。それはいかに朧げにせよ氣附く又知るといふことなしには行はれぬ。尤もこのことはなほ自然的生の闇みの中に囚はれてゐる。それが解放されたものが反省に外ならぬ。解放の動作として反省は根源的生との聯關を前提する。この聯關が維持されるが故に復歸も亦可能なのである。今かくの如き復歸を「囘想」(又は記憶)と名づけるならば、認識は囘想によつて成立つのである。尤もそれは認識が成立つて後の、從つて認識の一種としての、囘想とは異なつて、更に根源的なるもの認識そのものの成立根據をなすものである故、カントの用語を襲用すれば、「先驗的(transzendental)囘想」とも名づくべきであらう。しかるにこの囘想は更に根源的體驗と反省との聯關從つて兩者におけ
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