「宗教哲學」二六節以下、三七節以下、參看。
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        一〇

 吾々は歴史的時間性の立入つた論述に移る前に、今ここに、活動の一種に屬しながらそれの克服を志しかくて時間性にいくらかの變貌を來すであらう觀想の働きについて、尤もこの特殊の觀點よりして、更に展望を擴げよう。觀想は大體「美的觀想」――特に觀照ともいふ――と「認識」との二つに大別することが出來よう。美的觀想においては客體は自然的實在性より遊離してはゐるが、この遊離状態にそれを維持しようとする態度は顯はには現はれぬ。内容は實在的他者の象徴としての意義を棄てるが、なほ自然的生の具體性に留まつてゐる。之に反して認識においては遊離したる觀念的存在者はそれの獨立性乃至優越性において維持堅守される。すなはち客體は固定を見る。このことに應じて内容は抽象性普遍性の方向へ進む。自然的生よりの距離はますます著しくそれよりの解放はますます明かとなる。さて觀想においては、前に述べた如く、それの志す所が成就されるとすれば、主體は自己を表現し盡して全く客體の蔭に隱れるゆゑ、後にも論ずる如く、時間性は超越されねばならぬであらう。尤もかくの如き究極地に到達するためには、主體は觀念的存在者をそれの純粹の姿において抽き出しつつ、それの獨立性乃至優越性を徹底せしむべく特別の努力を試みねばならぬであらう。しからばそのことは、觀念的存在者をそれ本來の性格に留まらしめたのでは、果して成功するであらうか(一)。前に述べた如く、文化が自己實現自己表現としてのその本質に副ふやうな存在を保つためには、客體はますます自己性從つて顯在性を強めますます他者性從つて潛在性を弱めねばならぬ。觀想こそこの任務に當るものであるが、しかもそのことの究極の歸着點は一切の他者性の克服であり、このことは結局觀想そのもの延いては主體そのものの自己破棄に外ならぬであらう。それ故客體の固定は却つてむしろ他者性の強化を要求せねばならぬであらう。このことは先づ次のやうにして行はれる。すなはち、主體は振返つて自然的生及び自然的實在性との聯關を求めつつ根源へ遡ることによつて客體の他者性を確保しようとする。その場合觀念的内容は實在的他者の象徴となることによつて、否むしろ根源的體驗において有したる象徴性を取返へすことによつて、實在性を獲得するであらう。尤もその恢復は單
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