フ貌を遂げた派生的形象である。時の根源的の姿を見ようとする者は、一應かかる表象を全く途に置き棄てて根源的體驗の世界に進み入らねばならぬ。尤も體驗の理解は反省において行はれねばならぬ故、その際反省の産物である客觀的時間の姿は、吾々の視野を遮り目的物を蔽ひ隱し、かくて、すでにアウグスティヌス(Augustinus)も歎いた如く(一)、吾々の仕事を甚しく困難ならしめる傾きがある。さもあれ體驗的時間の眞の姿を明かにすることは吾々にとつて最も肝要なる基本的課題である。
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(一) Augustinus: Confessiones. XI, 14.
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        二

 吾々は、主體は、「現在」において生きる。現に生きる即ち實在する主體にとつては「現在」と眞實の存在とは同義語である。然らば體驗される即ち根源的の姿における時は單に現在に盡きるであらうか。若し人がややもすれば考へ易い如く又多くの學者が事實考へた如く、現在が延長をも内部的構造をも缺く一個の點に過ぎぬならば、この歸結は避け難いであらう。點は存在する他の何ものかの限界としての意義しか有せず、しかもこの場合現在によつて區劃さるべき筈の「將來」も「過去」も實は存在せぬ以上、時は本質上全く虚無に等しくなければならぬであらう(一)。しかしながらかくの如きは體驗における時を無視して客觀的時間のみを眼中に置く誤つた態度より來る誤つた結論に過ぎないのである。時を空間的に表象することは、後に立入つて論ずる如く、客觀的時間の場合には避け難き事であり、從つて現在を點として表象することも許される事、又特に時を數量的に取扱はうとする場合には、避け難き事であらう。しかもかかる考へ方の覊絆を脱すべく力めることが、時の眞の理解に達しようとする者にとつては、何よりも肝要なる先決條件なのである。
 現在は決して單純なる點に等しきものではなく、一定の延長を有し又一定の内部的構造を具へてゐる(二)。體驗においては、時は一方現在に存するともいひ得るが、しかも他方において、その現在は過去と將來とを缺くべからざる契機として己のうちに包含する。現在は絶え間なく來り絶え間なく去る。來るは「將來」よりであり、さるは「過去」へである。將に來らんとするものが來れば即ち存在に達すればそれは現在であるが、その現在は成立するや否や
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