シちに非存在へと過ぎ去り行く。この絶え間無き流動推移が時である。かくの如く將來も過去も現在を流動推移たらしめる契機としてそれのうちに内在する。ここでは生ずるはいつも滅ぶるであり、來るはつねに去るである。動く生きるといふことが現在の、又從つて時の、基本的性格である。時のある限り流動は續き從つて現在はいつも現在であるが、これを解して時そのものは不動の秩序乃至法則の如きものであり動くは單に内容のみと考へるのは誤りである。内容に即して現在は絶えず更新されて行く。主體の生の充實・存在の所有として、現在は内容を離れて單獨には成立ち得ない。むしろ内容に充ちた存在こそ現在なのである。内容と共に絶えず流れつついつも新たなのが現在である。
 來るを迎へることにおいて將來は、又去るを送ることにおいて過去は成立つとすれば、その來るはいづこよりであり又その去るはいづこへであるか。考察を嚴密に體驗の範圍に限定する限り等しく「無」又は「非存在」と答へねばならぬやうにも思はれる。さて、將來を未だ有らずとの故をもつて非存在と看做すは多分多くの異議を呼ばぬであらうが、之に反して過去即ちすでに有つたものを單純に非存在への移行と同一視することには力強き反對が起るであらう。人は先づ過去が囘想又は記憶の内容となつて存在し又影響を及ぼすことを論據としてそれの非存在性を否定するであらう。しかしながら、後にも論ずる如く、囘想の内容として主體の前に置かれるのは、實は反省によつて客體化されたる何ものかであつて、それの有り方は過去ではなく現在なのである。囘想は現に生きる主體の働きとしてそれの内容はかかる主體に對する客體として存在するのである。次に、人はかく問ふであらう。體驗されるものは何等かの形において有るもの、從つて「無」や「非存在」はそれ自らとして體驗され得ぬものである以上、非存在への移り行きも亦體驗を超越する事柄でなければならず、かくては時の内部的構造に屬する一契機として體驗されるといふ過去も結局空想に過ぎぬのではなからうか。將來に關しても同じ論法が適用され得るとすれば、體驗上の事柄としては結局現在のみが殘るのではなからうかと。さてこの異議に對しては、吾々は、無や非存在が單純にそれ自らとして體驗されぬことは、決してそれが何等の形においても體驗されぬことを意味せぬと答へよう。單純にそれとしての他より切離されたるものと
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