對するそれ、第三は客體相互の間におけるそれである。自然的生より文化的生への上昇は第一の實在的他者性よりの離脱であるが、そのことは又同時に第二第三の他者性の發生でもある。後の兩者の間では第二即ち客體そのものの他者性が根源的である。客體性に本質的に具はる他者性は、更に客體面において客體内容同志の間における一と他との關係を惹き起すのである。さて客體性に對する主體性は隱れたる中心實在的中心である。この中心が客體的他者性においてそれを質料となしつつ自己を顯はにする。かくて客體は自己性と他者性との兩面兩契機より成立つに至る。しかるにこれら兩者の分離は單にそれだけでは留まり得ない。すなはち兩者は單に客體面に内在し潛在する構成的要素であるに止らず、むしろそれであるがゆゑに、それ自身顯在的とならねばならず、かくて客體面において自己性と他者性との相區別される二つの領域として顯はにならねばならぬであらう。譬喩的に言ひ表はせば、自己性と他者性とは、反省によつて先づ成立つ客體面の、いはば表裏相重なる二つの層をなす。しかるにこれら二つの層が分離した以上、客體面はいかばかり薄くあらうとも、實は厚みがあり奧行があり立體的なのである。そのままに留まつたならば、裏にある層は全く隱れたる存在を保たねばならぬであらう。それ故この裏面が表面へ浮び出で從つて内容に内在する兩契機がともに表面化し客體面における二つの異なつた領域として顯はになり、他者性は客體内容同志の間における聯關となることが、客體成立における必然的なる第二歩でなければならぬ。客體面は、表裏兩層の存在とそれによる緊張とにより、又そのことの歸結として、裏面が表面に進出しようともがくことによつて、穩かなる滑かなる平面的存在を持續し得ず、彎曲を見動搖を來すを免れぬ。これが即ち活動である。さて觀想の目指す所は客體面の凹凸を矯正して純然たる平面に還元するに存する。しかしながらこの事は果して又いかにして成遂げられるであらうか。客體が、たとひ觀らるべきもの顯はなるべきものとしてにせよ、主體と對立してゐる間は、それの純粹なる平面的存在は望み得べきでない。それ故一旦活動の性格の克服へと發足した主體は、更に一切の他者性の克服へ歩みを進めねばならぬであらう。すなはち主體は、自己を表現し盡し殘る隅なく顯はとなることによつて、全く客體のうちに融け込み、逆に客體は他者である
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