果して相容れるであらうか。相容れるとすれば兩者の關係は何に存するであらうか。吾々は次の如く答へよう。活動が文化的動作の一般的性格である以上觀想も亦一種の活動である。ただそれは特殊の意味をもち特殊の方向へ志向する活動である。簡單にいへば、それの目指す所志す所は、自ら活動でありながら活動の性格を脱却し克服することによつて、文化的生の本來の意味を徹底させるに存する。これは活動を成立たしめる客體内容の二つの契機の間の緊張が緩和されつつつひに解除されることによつて行はれる。吾々は自己性と他者性との二つの契機が二樣の表現を見ることについて語つた。活動にとつて特に固有なのは、客體界が兩契機を代表する二つの形象乃至領域に分かれ、それらの間に働きかけるものと働きかけられるものとの關係が成立つことである。この緊張が緩和されるにつれて、形相はますます實現に近づき、自己はますます表現を進め、可能性はますます稀薄となり、隱れたるものはますます顯はとなるであらう。客體が客體として主體に對していくらかの隔りにおいて對立してゐる間は、各の内容を構成するものとしての兩契機の共存はなほ殘されるであらうが、異なつた内容と内容との聯關を支配する緊張はますます解除され、かくて主體は活動者たるを止め客體の曇りなく淀みなき透明なる姿に見入りつつ靜かに休息するであらう。自己を表現し盡したる主體は客體の蔭に隱れもはやわが姿をあらはに對立的位置に置かず、ただ隱れたる中心としてのみ存立を續けるであらう。すなはちそれは生の舞臺より退場するであらう。活動においては働きかける自己が顯はになつてゐる故生は主觀性を帶びるに反し、觀想においては客觀性が特徴をなすであらう。しかしながら觀想本來の傾向は更にここにも安住を許さぬであらう。客體がいくばくかの隔りにおいて主體と對立してゐる間は、たとひ各の内容を構成する内在的契機としてにせよ他者性は從つて自己性もなほ殘存するとすれば、そのことは活動の性格がなほ克服されぬを意味するのではなからうか。一定の内容が客體としての存在を保つ以上は、それは決して單純ではあり得ない。それは兩契機を含むものとしてすでに一と他との聯關を示すものでなければならぬであらう。
以上はまた次の如く言ひ換へることが出來よう。他者性には三種類がある(三)。第一は實在者が實在者に對する他者性、第二は客體が主體(實在者)に
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