關として成立つ限り文化的生は「活動」(〔Aktivita:t〕)の性格を示す。文化的生の最も基本的本質的なる性格は活動である。
ここに吾々は文化がいかに自然的生の基礎の上に立つかを見、かくてすでにここに文化的時間性がいかにそれの根源である自然的時間性の影響のもとに立つであらうかを望み見ることが出來よう。文化的生に活動としての性格を與へるものは自己性と他者性との兩契機の共存と聯關とである。その場合他者性は、可能性として質料として活動を可能ならしめるが、他方その活動の本質である自己實現の成就を妨げる。客體は他者であるが故にそこに主體は自己を顯はになし得るが、しかも同時に他者である限り、主體と對立しそれといくらかの間隔を保ちつつ後者を顯はならぬ自己に留まらしめる。他者は主體をしてそれとの關係交渉に立つ中心たらしめ自己たらしめるが、又他方においてその自己を隱れたるものたらしめつつそれを無能力從つて非實在的ならしめる。しかるに客體はもと他者の象徴が自己の表現へと轉籍したものであり、それの有する他者性は結局發生地の殘り香に過ぎぬ。その他者性の根源は實在的他者性に求めらるべきである。吾々はさきに自然的生における他者の二重性格について語つた(一)。他者は從つて將來は一方主體の現在を可能ならしめ存在の供給者の役目を務めつつ、他方現在を從つて存在を非存在へ從つて過去へ陷入れる。そのことの歸結として時は絶え間なき流動を示し存在はいつも未完成のままなる斷片的なる結局無意味なる状態に留まる。この事態に應じて文化的生においては自己性と他者性との兩契機は一方互に相俟ち相促がしつつ、しかも他方には相牽制し相排斥するのである。かくて文化的活動はつねに現實性への方向を取りつつしかもつねに目的地を絶えず移動する地平線のかなたに求めねばならぬ。際限を知らぬ連續と安定を見ぬ緊張とは文化の必然的に陷る運命である。
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(一) 三節參看。
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九
吾々はさきに客體に對する主體の態度は觀想に存すると言つた。しかるに今や文化の基本的動作は活動であることが明かにされた。これら二つの命題は相矛盾せぬであらうか。觀想と活動と―― 〔theo_ria〕 と praxis と――はギリシアの昔より哲學において相爭ふ二つの陣營を區別する旗印であつた(一)。兩者は
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