者性の契機を強調しつつ、兩概念の適用の領域を特に區別することによつて、別つべきを別ち明かにすべきを明かにしようと思ふ。
 前にも述べた如く「表現」は全く主體の勢力範圍内に留まつてゐる。それは顯はとなつた主體の自己であり、動作として解すればこの自己を顯はにする動作である。そこになほ殘留する他者性は客體のそれに過ぎず、從つてむしろ可能的自己性を本質とする。尤も主體は隱れたる中心として儼然存立するに相違ないが、表現の主體である限りそれは完き自己を表面に現はし盡し、かくて自滅を遂げることによつてはじめて行くべき處に行き着くのである。幸ひにかくの如き自滅を免れるとしても孤立は到底避け難き歸結である。文化においても主體は事實上實在的他者との關係交渉を全く離れることはない。しかしながら文化が文化である限り實在的他者は本質上不用である。ここでは主體の直接の對手は、實在的他者に對して遊離状態に置かれたる客體であり、主體の自己を顯はにすることにそれの存在の意義は盡きる。このことは客體の基體をなす實在者が「物」と稱せられる場合にのみならず「人」と名づけられる場合にも等しく當嵌まる(二)。文化においては我と他の人との共通なる生内容共通なる客體世界は建設され維持されるが、「我」と「汝」との間に成立つべき實在者間の關係、嚴密の意味の人格的關係、はここでは無きに等しい。假りに我以外人と稱すべき何等の實在者もないとするも、原理的に考へれば、文化はなほ存在し得るのである。文化の世界に現はれるであらう他の人は、自己實現自己表現がそれにおいて行はれる質料としての客體に過ぎぬ。それの原理的性格よりみれば、それは單なる「物」であるに盡きる。内在性乃至孤立性はかくの如く表現乃至それの主體の本質的特徴である。ライプニッツの「モナド」(單子)の説はこの事態の極めて明瞭且つ適切なる言表はしといふべきであらう。文化の世界においては主體は「窓無き」モナドなのである。このことはヘーゲルの如く主體を「絶對的精神」にまで擴大した場合にも變りが無い。文化は飽くまでも自己實現であり表現であり、從つて根柢においては内在的動作、主體を孤立に導く動作である。そこには主體に對立する嚴密の意味の他者即ち實在的他者は存在しない。總じて文化主義は形而上學にまで發展する場合には汎神論への道を取る傾きがある。絶對的主體即ち所謂神に對する他者はその
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