ラて徒勞に歸せねばならぬ。主體の自己表現として客體は徹頭徹尾主體を代表する。
尤もこれは客體が表現の任務を成遂げそれにおいて主體の自己が現實性に到達した限りにおいてのみ起る事態である。しかもかくの如き事態は決して完全に事實とはなり得ぬのである。客體は主體の表現ではあるが同時にそれに對して他者の位置に立つ。他者である限り客體は主體に對して單に可能的自己であるに止まる。それは、それにおいて主體の自己が實現さるべきものとしての、換言すれば、その自己實現に對する質料としての意義を擔ふものである。しかしながら純粹の可能性に盡きるとしたならば、顯はなる自己は全く姿を消し從つて客體も存立を失ふであらう。それ故客體はあくまでも形相及び現實性の性格をあはせ保たねばならぬ。かくして客體の成立從つて文化的主體の成立のためには、一方において自己性と現實性と形相と、他方において他者性と可能性と質料と、の兩者は缺くべからざる本質的契機としていつも共に具はつて居らねばならぬ。一方のみの徹底は結局一切の壞滅を意味するであらう。今他者性を徹底させるならば、それは實在的他者性に逆轉し、文化は自然的生及びそれの自滅の墓に葬られるであらう。之に反して自己性を徹底させるならば、自己を實現し盡して全く表面化した主體は、働きの向ふ先の他者と同時に働きの發する中心をも失ひ、實質なき夢の如く幻の如く消え失せるであらう。他者を失ふことは主體にとつては等しく死を意味するであらう。
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(一) ライプニッツは exprimer 又は 〔repre'senter〕 といふ語を用ゐた。
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七
客體の二重性格より來る文化的生の構造を正しく理解するために、吾々はここに「表現」と「象徴」とを特に區別しようと思ふ。これら二つの概念は必ずしも相背くものではない。むしろ半ばは相蔽ふものである。考へやうによつては表現は象徴作用によつて行はれ、象徴は何ものかの表現であるとも又すべての表現は象徴であり逆にすべての象徴は表現であるとも言ひ得るであらう(一)。共に表はす作用(表現)とも指し示す作用(象徴)とも名づけ得るであらう。共に一と他との二つの契機を含み、相分かれるものと相通ずるものとの二つの面を有する。しかしながら今吾々は表現においては特に同一性の契機を、象徴においては特に他
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