の光に照されぬ以上、考へ難き事を有り得ぬ事として排斥するは當然である。しかもこの不可能事が事實として起るのが惠みである。すでにこの現實的生においても愛の啓示はかかる不思議かかる奇蹟であつた。その奇蹟の徹底化、永遠そのものの、屈折による閃きだけではなく、目のあたり見る否全身をもつて浴びる光の直射が死後の生なのである。復活は徹底的創造に外ならぬ。自然的文化的生においても、惡しき有限性即ち他者を斥ける自己主張においてさへも、創造が隱れ濳んでゐた。信仰と愛とにより啓示に身を打任せることにおいて、無より有への轉向は隱されつつも姿を顯はにした。來るべき永遠においてそれは純粹に完全に徹底的に顯はになるのである。かくの如く言ひ表はすのがすでに時間的前後の型に從ふ譬喩的表現であるが、今更に大膽なる一歩を踏み出して、前後を通じての繼續從つて同一性について語るべく試みるならば、それは、不死性の思想が誤つて考へた如く、人間的主體の側にあるのではなく、ただ獨り神の側にのみあるのである。神の眞實《まこと》、何ものにも打勝ち何事をも貫徹する神聖者の主體性・人格性こそ萬事の本であり源である。
ここにこそ吾々は人間的主體の主體的人格的同一性の根源を見る。主體の同一性は現實的生においてもすでに直接的體驗を超越する事柄である。主體の自己性は客體内容の聯關において又それを通じての外には把握されぬ。内容は主體に對して他者であり又相互に他者である。主體は先づ客體としての他者において、しかして更に客體内容の聯關において自己を表現する。かかる表現において又それを通じての外に自己性の成立つ場處はない。これはすでに述べた通りである。しかるに自己表現(實現)は主體の活動であり、活動としては時間性の性格を擔ふ。主體が現在に生きつつ過去を現在に呼び出すことによつて活動は行はれる。そのことをなすのは囘想である。囘想なしには自己性の把握從つて自覺は行はれぬ。具體的にいへば、アイ……の系列において、イをそれに先立つアとの聯關において把握するためには、無に歸したるアは有として再生されねばならぬ。しかるにこのことは更に、無に歸したものと今現に有であるものとの同一性從つて反省より體驗への復歸――いはば先驗的囘想――更に又それの根源として主體の同一性――先驗的同一性――を前提する(四)。この先驗的同一性が結局囘想即ち無よりして有の發生
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