知覺を失つた一種の睡眠状態と解したが、かかる相違は根本問題の前には殆ど取上げるに足らぬ些事である。彼等はかくの如き相違以上には等しく一旦崩壞に歸したる身體の新生への復活を説くも、人格の中心が靈魂に置かれてゐる以上、これも同樣些事であるを免れぬ。或る學者(三)は存在と生とを從つて又非存在と死とを區別し、死は生の亡夫であつて存在の亡夫ではないと論じ、死を存在の仕方の變化とする見解に飽くまでも執着してゐるが、一見いかにも尤もらしく聞えるこの辯解も、存在を客體的存在と解し、主體的存在としての生をそれより區別し、むしろその類概念の下に包攝される種概念として取扱はうとする立場を暴露するだけであつて、詭辯でないまでも強辯であるを免れぬ。ここにはかくの如き無造作な形式論理的處理を許さぬ重要な問題が宿つてゐる。存在と生とは概念としては勿論二つであつて一つではないが、根源的生まで遡れば、實質においては全く一に歸する。又永遠が、無時間性におけるが如く、觀想の對象をなす靜かな存在ではなく、愛として生の共同としてのみ成立つことはすでに述べた通りである。吾々は死を生及び存在の亡失となす見解を飽くまでも堅持せねばならぬ。このことによつて時より永遠に亙る死の嚴肅深刻なる意義ははじめて貫徹されるであらう。
以上の如く、死後の生に關して歴史的に與へられたる表象のうちでは、復活が最も卓れたるものであるに相違ないが、それは一旦無に歸したるものが無の中より新たに有へ呼戻されるといふ意に解されねばならぬ。言ひ換へれば、死後の生は創造によつてのみ可能である。しかしてこのことは、事新しくいふまでもなく、惠みの賜物であるを意味する。靈魂不死性乃至それに類する死後の生の思想において根本的誤謬と認むべきは、人間的主體が、或はそれ自らに内在する本質の單獨の力により、或は客觀的世界乃至それの背後に立つ神の聰明有力なる援助により、いづれにせよ自らの力によつて、死に打勝ちつつ固有の存在を繼續するとなす點に存する。この思想の根源を突止めれば、有はあくまでも有であり、自己はあくまでも自己であり、他者と相容れず無を斥けるといふ自然的文化的生並びにそれの惡しき有限性と根本惡との立場に還元される。この立場即ち現實的生の立場に立つ以上、有が底の底まで無であるといふこと、自己が殘る隈なく他者の象徴となるといふこと、は考へ難き事である。永遠
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