見入つてゐるが、その姿はいつかは遮るものも隱すものもなくさながらに顯はにならねばならぬ。將來の現在性・將來の現在との完全なる一致において永遠性は存する故、この顯現は將來の方向に求められる。それは「希望」又は「待望」の對象である。さて永遠が時の眞中に顯はになる限りそれは信仰の對象である。それが永遠であり神聖者の創造の惠みである限り、それの完全なる顯現の保證はすでに信仰のうちに含まれてゐる。信仰は永遠の完全なる到來の約束といひうる。それが約束であり保證であり、從つて自らの以外乃至以上の何ものかを指し示す限り、信仰は希望となるのである。超越的なるものへ向ふものとして、いかなる宗教も何等かの希望の上に立つてゐる。しかしながら信仰も希望もそれ自身究極的なるものではあり得ない。それらは道案内に過ぎぬ。目的地に到着するとともに姿を消さねばならぬ。永遠と愛との完き顯現は宗教の退場を意味する。
 さて完き永遠の到來はいかにして行はれるであらうか。先づ第一に、時及び時間性の克服は完成されねばならぬ。時の終りにおいて又それを通じてのみ永遠は完く顯はとなり得るのである。しかもそのことは完成されたる事實としての死の到來を意味する。時間性と時間的生とが行く處まで行くことは、それの勢力の崩壞を意味するのである。死を求め死に向つて進むことが生の本質である。求めるものに、死に達することは生の完成であるが、この場合又消滅でもある。死が單に覺悟の事柄である間は、無は有の外にあり、生と存在とは壞滅を目掛けて行進を續ける。その間は無へと向ふ有はなほ存在する。目標に達したとすればどうであらうか。有が無の中に吸收されることによつて有は無くなるが、又有の外にあり有を待受ける無も同じく無くならねばならぬ。ここにはじめて徹底的に克服されたる契機として無を徹底的に内に含む永遠性の成立は可能となるのである。すなはち事實としての死の到來は生の、時間性の、克服であるとともに又死そのものの克服でもあるのである。古へより彼方の世の光に目覺めた人々が生の單なる繼續を、例へば殊に輪[#「輪」は底本では「轉」]※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]轉生の如きを、苦として乃至罰として感じたのは謂はれある事である。

        四八

 かくの如く救ひの徹底、罪と時と死との完全なる克服、は死の後に又時の終りを經てのみ達成される。
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