かくの如き純粹なる永遠及び永遠的生は時の眞中に生きるわれわれ人間にとつては全く超越的である。この世に内在する永遠は屈折しながらもなほこの世を照す光として體驗の範圍内に存し、從つて體驗内容を概念的に整理し擴充することによつてなほ概念的表現に移すことが出來る。啓示の體驗の及ぶ限り譬喩的表現のみ唯一の可能なる表現であるが、しかもそれは體驗の直接の表現として可能でもあり又許されもする。しかるに來るべき純粹の永遠は體驗の事柄ではない。それは現に啓示されては居らぬ。假りに啓示されたとすれば、屈折性を離脱してさながらの姿においてしかなされねばならぬ故、この世において可能なる唯一の表現としての譬喩的表現もそこでは全く無力とならねばならぬ。現實的生に對して克服及び超越の傍ら根源と完成とを意味するものとして、何らかの手掛りは與へられるであらうが、記述そのものは構想力の仕事、想像の領分に屬する事柄である。古へより預言や詩がこの任務に當つて來た。宗教的表象をなほ宗教そのものの立場に立ちつつ概念的に整理しようとする神學でさへ、この場合、上述の三重の性格にもとづいて、構想力の進むべき方向と警戒すべき岐路とを指し示すといふ批判的なる仕事以上の事はなし得ない。哲學に殘される任務は、更に一段高き反省の立場に立つて、その批判の原理の自覺を提供する以外には無い。
 來るべき永遠は死後の生を意味する。それの表象は靈魂の不死性と復活との二つの相對立する形態において歴史的に與へられてゐる。不死性の思想についてはすでに論述した。復活はペルシア教ユダヤ教キリスト教などにおいて見られる(一)。一旦死したる人が甦へる・再び生を取戻すといふのがこの思想の心髓である。今は歴史的敍述に立入る遑はない。これら兩思想の相違は通常、身體を死後の生の一要素として否定するか、或は肯定乃至重視するかに存する、と考へられる。この問題も決して等閑りにすべきでないはいふまでもない。身體の尊重は人格性の尊重を意味する。實在する主體として人間は決して精神と同一ではない。單なる精神は抽象的分析の所産に過ぎず、全き人間の片割れでしかない。この事は勿論生物學的心理學的にも言ひ得るが、人格の觀念まで進めば一層強く言ひ切りうる事柄である。人間が眞に實在者として生きるためには人格まで昇らねばならぬ。しかるに人格は共同においてのみ成立つ。共同は象徴を通じての
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