人間がこの世において直面し體驗しうる死の唯一の姿といふべきである。死の恐怖のうちにもすでにそれの必至從つて覺悟の要素は或る程度まで含まつてゐるが、死に對する態度がこの段階に留まるならば、死より遁がれようとする欲望をなほ脱し得ず、從つて、死が無に歸すること生の壞滅であることの自覺にまで徹せず、從つて又、單なる生活慾・原罪の單なる發動の虜であるを免れぬであらう。嚴密の意味における死の覺悟に達するに及んではじめて人はこの世の生の行くへに目覺めるのである。それ故死の覺悟は主體が本然の姿に立戻るための重要なる一歩、神聖者との眞の共同へと踏出されたる一歩といふべきであり、從つて悔いの一つの形態、しかも罪惡そのものの明かなる自覺なしにも起りうる故、悔いの最も原始的乃至基本的なる形態といふべきである。すべての純眞なる悔いは神聖者の愛によつて成立つ故、死の覺悟も亦惠みの賜物であり罪の赦しの發現である。人は決死の尊さについて語る。しかしながら死の決心をなすことそのことが尊いのではない。例へば、この世の苦惱を遁れんがための決死は、死を生の存續となす前提の上に立つものとして、自己矛盾を含む愚擧であるが、更に自己の責任を遁れようとする卑怯の振舞でさへある。總じて輕々しく死を決するは、他者に委ねらるべきものを自ら處理しようとするものであつて、神聖者に對する冒涜である。之に反して、神聖者の言葉・神の召しに應じての、責任と本分との自覺よりしての決死は、眞の永遠の閃き、神聖なる愛に答へる純眞なる愛の輝きである。ここまで達すれば、人は更に一歩を進めて死そのものをも惠みとして受けるであらう。罪の赦しの背景のもとには、生がすでに惠みであり、死は又更に惠みである。滅ぶべきものが滅びるのは、生くべきものが生きるための前提として、無より有を呼び出す永遠者の發動でなくて何であらうか。

      六 死後の生と時の終りの世

        四七

 しかしながら罪の赦しにも拘らず、時の眞中における永遠の啓示にも拘らず、罪も時もなほ嚴として存在する。神の惠みは動いてはゐるが、なほ完き支配には至らぬ。これはなほ安住を許される究極地ではない。それ故最後に罪そのもの時そのもの從つて死そのものが完全に克服されねばならぬ。これこそ永遠の完全なる到來純粹なる顯現である。吾々は今は信仰の平らならぬ鏡に歪められて映る永遠の姿に
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