ものに對しては遺憾の念を抱くことさへすでに事理に背くであらう。文化的生においては囘想によつて過去は或る程度の克服を見現在の性格を得るであらうが、現在となつた過去は、すでに明かにした如く、主體の勢力範圍に屬し主體によつて處理され變更されうる事柄である。主體は進んでそれに善處しそれを善用し過ちは改め禍は轉じて福となせばよいのである。それ故責任は、それの本來の意義を徹底させれば、文化的生が許し難き又及び難き超越的なるものを指し示してゐる。責任は自己が動かし得ず處理しえぬ何ものかへ、從つて結局實在的なる他者へのそれでなければならぬ。眞實に純粹に絶對的に他者性を保つものは神聖者以外にはない故、責任は結局神に對してのみ成立つ事柄である。自己に對する責任について正當に語りうるのは、その自己が他者の、結局は、神聖者の象徴・神の言葉の意味を有する場合にのみ限られる。然らずして自己に對する責任について語るならば、それは自己實現の努力の目標を不正當に飾る言葉の綾に過ぎぬであらう。尊嚴と權威とをもつて何ものかが我に迫り來る時、當爲と命令とが從順と獻身とを我に要求する時にのみ、責任について正當に語られるのである。罪惡はこの意味の責任に對する違反として罪責であり、更に神聖者に對する反逆である。罪責の自覺は「悔い」(悔悟)と呼ばれる。これは時間性を全く克服したる永遠者との關係においてのみ成立つ事柄である。ここでは過去の行爲も單に善處すればよき事柄ではなく、主體が全き自己をもつて責任を負はねばならぬ事柄となる。かくて罪責は必然的に悔いとなる。この悔いに神の側において對應するのが罪の赦しである。否それどころか、悔いそのものはすでに罪惡への沒頭よりの解放を指し示すものとして、それ自身すでに神の救ひの業であり、罪の赦しの基礎の上に成立ち、むしろそれと表裏一體をなす。神に關しては、赦しを悔いの報酬となすは本末顛倒である。赦されたればこそ悔い得るのである。
 ここよりして死も新たなる意義を發揮するであらう。死は、すでに論じた如く、時間性の徹底化であり、他者を離れ單獨化しつつ自己を主張する主體の必然的に陷る運命である。かくの如き自己主張が罪惡であり、從つて死はまた罪の報いである。そこまで達して罪の恐るべき意義は徹底する。しかしながらこの生の留まる間は死は到來する事實ではなく、覺悟のみの事柄である。覺悟する死は
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