れる前のものでなければならぬ。かかる言ひ方はすでに時間的規定によるものであり譬喩的でしかあり得ぬはいふまでもない。古より宗教的及び哲學的想像は、例へばヘブライのアダムの説話の如く或はプラトンの「パイドロス」における魂ひの墜落の説話の如く、具體的形容とこの世ながらの潤色とをもつて理解に役立たうとしたが、超時間的墮罪といふが如きは吾々のあらゆる表象や概念を超越し、勿論理論的には全く近寄り難き事柄である。吾々はすべての時間的動作・全き時間的存在の根源において、それに先行する制約として、それの本質的性格を規定し付與するものとして、永遠と時とを繋ぐ何らかの動作を前提すれば足りる。これは個々の時間的動作の根源にあるものである故、神學的乃至哲學的思索はこれを「原罪」(peccatum originale)「根本惡」(〔das radikale Bo:se〕)などの名をもつて呼んだ。この原罪は動作の時間性を超越して過去の動作をも支配するものである以上、言ひ換へれば、過去の自己に對する責任といふ事實が明かに示す如く、現在を去つて無に歸することが原罪の支配よりの解放を意味せぬ以上、過去の克服としての永遠性の光はここにも明かに反映してゐる。さて、原罪は人間的主體の動作を單純なる直接的なる自己主張とならしめる。時間的なる個々の動作の罪惡性は、この自己主張の直接性に基づき、それを克服して愛の實現の基體となすを拒み、かくて神の愛に對する不從順の態度を取るに存する故、有限的主體にとつては時間性の克服はこの根源的罪惡のそれでなければならぬ。
 罪の克服は宗教的用語においては「救ひ」又は「救濟」と呼ばれる。それは眞の有限性へ主體の本然の姿への復歸として、神聖者の惠みによつてのみ行はれ得る。本然の姿とは、主體が自ら固有の力によつて實現する存在の仕方をいふのでなく、自己が全く無に歸し彼方より與へられるものによつて充さるべき空虚なる器となることをいふのである。すなはち救ひは創造としてのみ行はれる。被創造者としての本來の面目を自ら抛棄して、あたかも自ら創造者であるかのやうに、ただひたすら自己の主張にのみ耽り、そのため却つて壞滅の道をたどるに至つた主體を、徹底的に無に歸せしめることによつて、新たなる主體性・眞の有限性を與へつつ愛の主體として創造する――これが救ひである。この救ひは、自然的文化的主體が惠みの光に
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