照されて愛の閃きを示す限り、すでにこの世にはじまるといひうるであらう。しかしながら、この世の續く限り主體の態度はなほ自己主張であり、それの生の性格はなほ時間性を脱しない。現實的生の續く限り罪も時間性もなほ克服されずにある。かくの如き生はいかにして愛の閃きを示しうるであらうか。示されたと思はれるものは、むしろ自覺を惑はす鬼火の如きものではないであらうか。救ひは全く神の惠みによる事柄であつて、人間が自己省察によつて知り得る自己の状態や業績などを本としてかれこれ論議しうる事柄ではないのである。それ故、罪も時間性もなほ克服されぬこの世において救ひがいかなる姿を取るかについては、吾々は神の惠みの特殊の發動と啓示とに俟たねばならぬ。「罪の赦し」が即ちそれである。
罪の赦しは罪惡の事實を前提した上の神聖なる愛の最も基本的なる動作といふべきである。罪無き世は永遠の世であり、そこでは勿論罪の赦しの事實も又必要もなく、有限的主體は神聖なる愛の喜びに浸りつつ、とこしへの現在に生きるであらう。又生の自然的文化的段階に強ひて立留まり共同への憧れを強ひて抑へようとする、從つて僞りの有限性に強ひて滿足しようとする、絶望的努力に耽るやうな人間的主體に對しては、勿論罪が存在せぬ如く赦しも亦空想に過ぎぬであらう。しかしながら罪の事實が一たび視界に入つた以上、罪の赦しの基本的重要性はたちどころに明かになるであらう。底知らぬ無の淵に惠みの手に支へられてわづかに墜落を免れてゐる有限的主體にとつては、惠みに對する反逆である罪惡は壞滅を意味する外はない。惡しき有限性の方向へとはいへ、とに角主體としての存立を保つてゐることそのことがすでに反逆を反逆として認めぬ惠みの賜物なのである。この世この生そのものがすでに罪の赦しの上に立つてゐる。それは個々の行爲に對してはじめて發動するといふが如き生やさしき表面的な事柄ではない。ここよりして吾々は神の創造が永遠的存在の根柢にあるばかりでなく、時間的存在そのものも創造の惠みによつて成立つことを知り、あらゆる厭世的世界觀を免れうるであらう。あらゆる覺束なさ醜さあらゆる惱み苦しみあらゆる虚僞不徳不明あらゆる爭鬪破壞にも拘らず、人間の生は、文化の方面においても人倫の方面においても、神聖なる全能なる愛の力によつて支持されてゐる。自然的文化的生が根もと深く罪を宿しながらなほ神の惠みを容
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