み驀進する。生の直接性・自然性とはこのことである。しかしてこのことは本來の有限性の否定從つて永遠性の否定を意味する。主體は無よりの離脱を求めることによつて却つて滅びぬ存在を失ふ。これが時間性である。時間性においては主體は無をわが外に追ひ遣つてひたすらわが有をのみ主張する。そのことの歸結としてそれは却つてわが外にある無のうちに追ひ込まれ、絶え間なき壞滅の運命をたどるに至る。ここに惡しき有限性は成立つ。すなはち、それは主體が自らの力を恃みわが本然の姿である眞の有限性を脱却し、いはば、神によつて造られたるものであり神の惠み無くしては無に等しきものでありながら、惠みの賜物を逆用して、自ら神に成らうとした僭越反逆の振舞ひの現はれである。この惡しき有限性よりして、惡しき永遠性としての無終極的時間が發生することは、すでに説いた所で明かであらう。時間性の克服は主體が自己本來の面目を取戻し、神の愛へ從つて眞の有限性の故郷へ立還へることにのみ存する。
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(一) Ethica. I, 8. schol. 1.
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五 罪 救ひ 死
四五
ここよりして吾々は時間性と「罪惡」との親密なる聯關へと導かれるであらう。時間性は主體の状態、しかも從ふべく強ひられる運命的状態であつて、罪惡と同一ではない。時間性そのものに罪惡を置くならば、永遠性も時間性の單純なる否定に過ぎぬ無時間性に求められ、かくて時を知らぬ純粹の存在・純粹の眞理の觀想に身を委ねることが、時間性の克服の道となるであらう。愛において永遠性を發見した吾々にとつては單なる時間性が罪惡そのものではないことはすでに明かである。しかしながらそれは何等かの意味において罪惡の歸結でなければならぬ。愛より從つて神への從順よりの離脱、神聖者への不從順反逆こそ罪惡である。かかる罪惡は時間的存在の根源にあつて永遠よりの墜落と時の發生とを惹き起す。すなはち、罪の報いは時間性とそれの徹底化である死とである。
時間性及び死の根源に罪があるといふことは、その罪を人間的主體の個々の動作に歸屬せしめることの誤謬を明かに示すであらう。それは永遠より時を發生せしめる根源的動作において求められねばならぬのである。しかしながら人間の現實的生はいつも時間性の性格を擔ふ故、その動作は時に先立つもの、生
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