あらう。有限性と時間性とは通常殆ど同一事の兩面に過ぎぬが如く考へられる。しかしながらこれは當を得ない。存在が何らかの制限・限界・缺陷を有する場合、即ち一般的にいつて非存在と本質的に結び附いてゐる場合には、それは有限的と呼ばれる。スピノーザがそれを部分的否定(ex parte negatio)と定義したのは典型的といふべきであらう(一)。時間的存在は勿論この定義に相當する。時において存在する主體は實在的他者・他の主體と互に相容れぬ關係に立ち、他を制限しつつ自らも制限され、又自らであることによつて取りもなほさず他ではなくなる。又それはかくの如き交渉の歸結として絶えず無の中非存在の中へ陷沒する。有限性が時間性と極めて親密なる聯關にあることは爭ひ難い。然らば有限性はいかなる場合にも永遠性とは縁遠き乃至は相容れぬ位置に立つのであらうか。この點に關しては通常行はれてゐる思想は根本的修正を要する。永遠性に關する吾々の論究は次の事態を明かにした。人間的主體は、神聖者の創造の惠みによつて、無を外に乃至外に向つて有するを止め、それを自己の核心に本質の奧深き中心に、克服されたる契機として有するに至つて始めて時間性を克服し永遠性を成就する。さてかくあるとすれば、主體は有限的であることによつてのみ永遠的でありうるのではなからうか。永遠性が主體の眞の存在の仕方であり、時間的存在者はそれに憧れそれへと昇るべく努力せねばならぬとすれば、かかる有限性こそ眞の有限性、本質において有限的なるものの本來の性格純眞の姿といふべきである。この有限性は、かの時間性に等しき有限性の如く、單に部分的否定即ち半ば有半ば無といふが如き妥協的存在ではなく、一方徹底的に即ち本質の中心まで無でありながら、他方徹底的に有即ち滅びぬ存在である。今これを眞の有限性と呼ぶならば、時間性と表裏の關係にある有限性は、「惡しき有限性」の名を與へらるべきであらう。
眞の有限性において主體は絶對的他者の愛に安住し、そこより離れて自己の獨立を求めるといふことがない。それの主體性それの動作の中心は、他者の純粹の象徴としての自己を主張することに盡きる。從順と信頼とがそれの態度である。しかるに自然的生における主體は、本質においては有限的であり無の上に立ち無を自己の中心に抱きながら、あたかも純粹の有であるかのやうに振舞ひ、ただひたすらに自己主張へとの
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