れたる存在を保つ故、何等の爭ひも又何等の苦しみ悲しみも平和と歡喜とを脅かさぬであらう。しかるにこの世の姿はそれとは正反對である。ここでは他者は自然的文化的主體であり、從つて永遠の愛に背きつつ世の惱みに悶える主體、絶えず存在を失ひ缺乏と壞滅とに委ねられる「汝」である。この窮状より彼を救ふことが、それ故、我の急務とならねばならぬであらう。我は人の罪惡と苦惱とをわが身に背負ふことによつて、自己を他者のものとなしつつ、他者の存在の、從つて結局は他者の主體性、自然的文化的のみならず人格的主體性、の維持と促進とに邁進するであらう。慈しみ・憐れみ、進んでは奉仕・獻身等が我の態度となり乃至はそれとして要求されるであらう。――かくの如く生きるものは今現に時の眞中にこの滅びつつある世に在りながら、すでに滅びぬ現在において永遠的生を生きるのである。

        四一

 吾々の論究の成果は永遠は愛において成立つといふことである。すなはち、第一に、永遠は主體的のものであり、客體的のもの單に靜かなる存在ではない。次に、それは共同であり、それ自らの孤獨なる存在に安んずるものではない。すべて實在的主體的のものにおいては、「存在する」は「働く」「生きる」と同義である。しかしてすべての生すべての動作は他者へのそれであり、單獨孤立を斷然拒否する。かかる存在は完成されたる共同においてはじめて維持貫徹される。共同の成立つ限りにおいて存在は壞滅を免れる。時間性の觀點より見られたる存在が現在であるとすれば、滅びぬ現在即ち永遠は愛の共同においてのみ成立つのである。かくの如き生は缺乏と壞滅とを知らぬ。完成性と全體性と、從つて又濁りなき淀みなき生の喜びはそれの特徴をなすであらう。
 永遠性の以上の如き本質がすでに或る程度までイデアリスムの哲學によつて洞見されたことは、吾々がエロースについて論じた所からも察し得られるであらう(一)。アリストテレスがプラトンの思想に加へた修正の最も主なるものは、存在を生乃至動作(energeia)と同一視したことである。存在を靜止せる自己同一性に置くことには滿足し得ずして動的性格をそれに付與しようとする傾向はプラトンの後期の思索にも見えるが、それが貫徹されて世界觀の中心に置かれるに至つたのはアリストテレスにおいてである。時間的存在においては生は運動として實現される。それは可能性よ
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